思いつき考察「ソシャゲの課金と幸福」

2000年代からスマホとともに爆発的に普及し、既存のゲーム市場以上の規模に至ったソーシャルゲーム。通称ソシャゲ。

このソシャゲに一般的に使用されるシステムである「課金」は、金銭の使いみちとしてよく議論の対象になります。

果たして「多額の課金」は良いものと言えるか、幸福の観点から見て、少し面白い考えが思いついたので、記してみます。

ソーシャルゲームの課金に関するよくある指摘

ソシャゲの課金に関する、主な指摘は以下のようなものです。

「無料でも遊べるのに、月に何万円も費やすことの意味がわからない」

たとえばこちらには課金の是非についての意見がまとめられています。

 

要約すると、このような内容です。

肯定派の主張
・ソシャゲは趣味であり、趣味に金を使うことは間違っていない
・タダでゲームをしようとするのは浅ましい
・課金により快適にゲームができるためより楽しめる

否定派の主張
・趣味としてはあまりに低俗な趣味である。ゲーム性も乏しい
・ガチャという射幸心を煽って課金させるビジネスモデルを採っている以上、タダで遊ぶことが浅ましいという主張は見当外れ
・課金して強くなっても何が楽しいのか

ライターの社領エミ氏が行った独自アンケートでは、「課金して幸せか?」の問いに対し半数がYESと回答し、NOという回答は12%に留まりました。無論、偏りはあるだろうが課金を必ずしも不幸と感じるわけではないようです。

功利主義と功利の怪物

私は幸福という観点で、ソシャゲが善か悪か、考えてみました。

趣味が幸福を生むことを目的とするならば、幸福が最大化される趣味こそが最高の趣味といえます。(ここでは「薬物」のように身体に多大な悪影響を及ぼすものは除外し、趣味に使用する金額も破産しない範囲に留まる前提で考えます)

幸福による善悪の基準として古くからある考えが「功利主義」というものです。

功利主義:
行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性、英: utility)によって決定されるとする考え方(出典:Wikipedia「功利主義」)

シンプルに言えば、全体の幸福が最大化するようにすべきという考え方です。

一見もっともなように見えますが、実は数多くの批判を浴びている考えでもあります。というのも、功利主義は「古代ローマの剣闘士などは、犠牲となる奴隷の不幸より、それを見て楽しむ観客の幸福の総量の方が大きいため正義である」という考えに陥るため、直感的に忌避される代物だからです。他にも、幸福の「質」についての考察など、切り口は複数存在します。

その切り口の一つ、「功利主義」の限界を示した思考実験が「功利の怪物(Utility Monster)」というもの。

ある科学者が普通の人よりも物事から功利を引き出せる存在を作り出したとしよう。私たちはケーキを食べれば、一定の幸せを感じるだろう。しかし、功利の怪物はその1,000倍の幸せを感じることができる。もしケーキが1つしかなかったとしたら、最大の幸福を得るためにそれを功利の怪物に与えるべきだ。ケーキが2つであっても、2つとも与えるべきだ。功利の怪物が一般人よりも多くの幸福を得ている限り、功利主義では大多数の人々を不幸にすることになる。それでも世界全体で見た場合の幸せの総量は最大のものなのだ。(出典:哲学者が考えた奇妙な10の思考実験 : カラパイア

勿論、功利の怪物は想像上の存在です。現実の社会では、怪物など存在せず、「多少個人により感じ方の差はあれど全体ではほぼ同一と捉えても問題ない」としたほうが良いでしょう。

ただし個人の「心の中」でなら、怪物がいたとしても然程不自然ではありません。「好み」という形で、幸福な事象に対する幸福の量は大きく異なってくるためです。

「功利の怪物」の思考実験を少しだけいじって、以下の設問を設定します。


ある科学者が私の脳味噌に電気刺激を与え、特定の物事から多くの功利を引き出せるようにしたとしよう。私はケーキを食べれば、一定の幸せを感じる。しかしソシャゲの課金をすると、ケーキと同じ金額でその1,000倍の幸せを感じることができる。


この仮定ならば、功利の怪物と同じ結論に至ります。つまり、


手持ちの金でケーキを一つしか買えないなら、最大の幸福を得るためにその金で課金をするべきだ。二つ買えるだけの手持ちがあってもやはり全て課金するべきだ。他のことに一切金を使うべきではない。課金以外のことはできなくなるが、それでも私は考えうる限りの幸福の中にいる。


この論理を用いれば、ソシャゲに処分可能な資金の全てを投じることを簡単に正当化することが可能ですし、幸福の感じ方を他人が確認することは不可能なので課金が間違っていると誰も言えなくなります。逆に言えばこの論理は、「他の全ての物事よりもソシャゲでしか幸福を感じることができない」人間にしか成立しないとも言えます。幸福を得られる手段が他にあるのなら、ソシャゲに金を使うことは誤りになるからです。そんな人間がいないとは言いませんが、果たしてソシャゲ重課金者全員がその領域に辿り着いているのでしょうか?

「功利の怪物」と同じく、この論理に激しい違和感を覚えるのは私だけでしょうか?

広告


 

“思いつき考察「ソシャゲの課金と幸福」” への2件の返信

  1. その理論の中に、「限界効果の減少」という経済学上の現象を考慮されていないと思います。例えば、あるソシャゲに最初に一万円を課金すると100単位の幸福感を得られると仮定しますが、その後10万円を課金しても1000単位の幸福感を得られるとは限りません。
    実際に私の経験によるもそうですが、一点狙いのガチャにほしいキャラが出てくる時は幸福感の限界効果が一番大きいところです、その後二体目か三体目が出てもそんなに嬉しくはないんです(そこら辺はゲームのデザインによりますが、一般論として共通性があると思う)。
    逆にゲームの運営者として、その課金による幸福感の限界効果の減少を最小にするのは大事だと思う。普通の手段としては、二体目のキャラが分岐進化できるか何体あったらほかの任意のキャラを交換できるという仕組みですね。でもその同時に、課金額が大きくするほど強くなるという傾向も抑えるべきだと思う、特に対戦要素があるゲームに、無課金や軽課金プレーヤーも楽しめるような環境作りはゲームの存続にはとても重要です。そのバランスを取るのは大変苦労だと思うが、運営側もきっと常にデータを分析しながら、工夫にしてるだろう(あそこのモデル構築やシミュレーションがすごく興味深いだと感じます)。

    1. ショウ様。コメントありがとうございます。ご指摘に関してはもっともだと思います。功利の怪物は、その怪物が感じる幸福が常に一定であることを前提とした存在ですので、一定の刺激には慣れてしまう人間の心理を説明するには無理があります。本来であれば、幸福感の変化や、他の刺激に対する相対評価を含めて考察すべきですし、確率が下がるほどに逆にやめられなくなるギャンブル特有の心理にも触れるべきでした。今回は『功利の怪物』を用いることで「課金」行為の合理化・正当化ができないだろうかと考察し、究極の重課金者以外はやっぱり無理があったということで考察が終わってしまったわけですが、いずれそこも含めて考えてみたいですね。ゲームの運営者側の視点というのも面白いですね、私も気になります。様々なプレーヤーの存在を想定して飽きさせないバランス構築が必要になる。生き残っている運営会社はそれを熟知してるでしょうから、裏側を覗いてみたいところです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください